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横浜地方裁判所 昭和54年(行ウ)24号 判決

原告

栗原敏子

右訴訟代理人

内藤功

岡村親宜

山田裕祥

古川景一

被告

地方公務員災害補償基金神奈川県支部長

長洲一二

右訴訟代理人

福田恒二

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が原告の公務災害認定請求に対し昭和五一年五月六日付をもつてした公務外認定処分はこれを取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  原告は昭和四四年六月一日神奈川県消防学校(以下「消防学校」という。)に臨時職員として採用され、ついで同年八月一日技能吏員に採用され、炊事作業員として同学校の給食調理作業等に従事していたものである。

2  原告は昭和四六年三月二四日午後三時頃、消防学校における調理作業に従事していた。当日は消防学校の卒業式の前日で、卒業式の際に配られる折詰弁当を作るため、普段であれば4.5升の米を三籠分と三升の米を三籠分の計22.5升を炊くのに対し、その日は六升の米を三籠分と四升の米を六籠分の計四二升を炊くことになつていた。そこで炊飯の当番に当たつていた原告は、研がれた米をまず四升炊き三段のガス炊飯器に下段、中段、上段の順で入れ、次いで六升炊き三段の炊飯器に下段、中段の順で入れた後、更に籠に入つた研がれた米(重量は容器ともで約一四キログラム)を床上約1.4メートルの位置にある同炊飯器上段の釜に入れようとして籠を持ち上げたところ、足を滑らせ籠を落としそうになつたので、突嗟に首を左に曲げて頭と首でこれを受け止めた。その結果、原告は頸椎捻挫(四肢不全麻痺、頸肩腕症候群)の傷害を負つた(以下「本件災害」という。)。

3  原告は本件災害が原因で発症した腰痛のため、同年四月二七日から同年七月二三日まで大船共済病院に入院し、同月二四日退院した後通院して治療を受けていたが、重篤な症状が軽減したので同年一一月一日復職した。しかしながら、復職に際しては医師から「軽労働就業には支障はない。労働時間は六時間が適当である。」旨の診断所見が出され、消防学校の内藤管理課長もこれを了知していたにも拘らず就労後五日目から原告はチーフである溝上国夫の指示により、食器を洗つて籠に詰め、熱湯消毒して籠を持ち運ぶという重量物運搬作業をさせられた。これがため原告は同四七年三月一一日頃には口唇にしびれを感じ、更に同月二五日には重篤な上肢のしびれ等の症状が現われるに至つたため、同月二七日には再び大船共済病院に入院した。そして原告はその後、国立横浜病院に転院し、同年八月二六日退院後も同病院に通院して治療を受けたが今日に至るも軽快せず、立位を保つことができるのは僅か数分間のみで、座位を保つことは不可能であり、常に背骨から腰の部分にかけてひどい痛みがあつてコルセットの着用を絶やすことができず、握力は両側ともにほとんど喪失した状態である。

4  このように原告は公務を遂行中これに起因する頸椎捻挫の傷害を負つたものであるから、右災害は公務上の災害というべきである。仮に頸椎捻挫そのものに業務起因性が認められないとしても、復職後の過重な労働によりその症状を重篤化させられたものであるから、原告の上記の傷病は公務上の災害というべきである。

5  そこで、原告は被告に対し地方公務員災害補償法に基づき本件災害につき公務災害認定の請求をしたところ、被告は昭和五一年五月六日付で本件災害を公務外と認定する旨の処分(以下「本件処分」という。)をした。

6  しかしながら、原告の前記の傷病が公務上の災害というべきであることは前記のとおりであるから、これを公務外と認定した本件処分は違法である。よつて原告は被告に対しその取消しを求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1の事実は認める。

2  同2のうち、昭和四六年三月二四日が消防学校の卒業式の前日であり、原告が卒業式の際に配られる折詰弁当を作るため炊飯に従事していたことは認めるが、その余の事実は否認する。

炊飯釜の上段の上端までの高さは約一二〇センチメートルで、研いだ米六升の重量は運搬用金籠の容器ともで約10.6キログラムである。また、卒業式の際に配るため準備していた折詰弁当の数は一五〇であるから、当日の炊飯量はせいぜい一五升程度にすぎず、そうであれば使用する釜は使用し易い四升釜三つと六升釜中段一つで足り、六升炊き三段の炊飯釜に各六升も入れて炊飯する必要は全くなかつた。

3  同3のうち、原告が昭和四六年四月二七日から同年七月二三日まで大船共済病院に入院し、同月二四日退院した後通院して治療を受けていたこと、医師から復職を許可され、同年一一月一日から復職したこと、その後大船共済病院及び横浜病院に入院したことは認めるが、原告の症状は不知、その余の事実は否認する。

なお、原告が大船共済病院に再入院したのは同四七年三月二九日である。

4  同4の事実は否認する。

原告は被告に対し昭和四六年三月二四日の災害を災害事実として特定しそれについて公務災害の認定請求をしていたもので復職後の症状増悪について公務災害の認定請求をしていたのではないのであるから、復職後の労働について公務災害の主張をするためにはあらためて被告に対し公務災害の認定請求をなすべきであつて、本件処分の取消事由としてこれを主張することは許されない。

5  同5の事実は認める。

6  同6の主張は争う。

三  被告の主張(処分の適法性)

被告が原告の申請に対し公務外災害と認定したのは

1  原告主張の災害発生の事実を裏付ける客観的資料はなく、むしろ否定的資料が存在し、原告の主張自体も時日の経過とともに変化しているうえ矛盾さえも認められる。

2  原告は、災害が発生したという日から約一か月間従前どおりの勤務を続けているが、もし原告の主張する日にその主張のような災害が発生していたならば右のような勤務は不可能である。

3  原告は本件災害の発症である腰痛の原因として変型性脊椎症を主張していたが、変型性脊椎症は医学上加令による退行性変化とされており、原告主張の如き災害性の原因により生ずるものではない

等の事情から原告の疾病と公務との間には相当因果関係がないものと判断したからであつて、右認定処分は適法である。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

一原告が昭和四四年六月一日消防学校に臨時職員として採用され、ついで同年八月一日技能吏員に採用されて消防学校の炊事作業員として勤務し、給食調理作業等に従事していたことは当事者間に争いがなく、原本の存在及びその成立に争いがない乙第三号証によれば、原告は、昭和四六年三月二四日午後三時頃消防学校炊事場において金の籠に入つた研いだ米を六升炊きの炊飯器の上段の釜に入れた時に頸肩腕症候群兼変形性脊椎症の傷病が発生したとして、被告に対し地方公務員災害補償法に基づく災害補償給付の請求(公務災害認定請求)をしたことが認められ(これに反する証拠はない。)、これに対し被告が、同五一年五月六日付で右補償の請求の原因である災害は公務外により生じたものであるとの認定処分(本件処分)をしたことは当事者間に争いがない。

二そこでまず、原告主張の災害(原告は本訴において当初補償請求の原因たる災害を変形性脊椎症と主張していたが、後にこれを頸椎捻挫と改めた。)の発生の有無について判断する。

1(一)  〈証拠〉を綜合すると、

消防学校では、昭和四六年三月二五日卒業式を挙行することを予定し、当日卒業生、職員及び来賓等の参列者に対し同校で作つた折詰弁当を配ることにしていたので、その前日である同月二四日、消防学校の炊事作業員である溝上国夫(チーフ)、原告、沢村フミ子、野口綾子、引地喜美恵及び笹佐知子(非常勤)の六名が決められた分担に従い午前九時頃より同校調理室において折詰弁当を作る作業を始めたこと、原告の分担は炊飯であつたがその作業内容は、自動洗米機で研がれた米を重さ約1.6キログラムの金籠に入れてガス炊飯器まで運び、これを炊飯器の釜に移し入れるものであつたこと、当時消防学校の調理室に設置されていた炊飯器は二個で、いずれもガスを使用するものであり、うち一個は釜の炊飯量が六升、他の一個は同四升でそれぞれ釜が上下三段となつており、六升炊き炊飯器の上段の釜までの高さは床上から約一二〇セソチメートルである(四升炊き炊飯器については証拠上詳かでないが、六升炊き炊飯器と大差はないものと推認できる。)ことが認められ、

(二)  また、原告は

(1) 〈証拠〉によれば、昭和四六年四月七日和田医院において変形性腰痛症の

(2) 〈証拠〉によれば、大船共済病院において同月二六日腰椎椎間板障害、同年九月二〇日左股関節痛、同四七年三月二五日頸椎骨軟骨症の

(3) 〈証拠〉によれば同年六月五日国立横浜病院において頸肩腕症候群、変形性脊椎症の

(4) 〈証拠〉によれば国立横浜病院において同五二年五月二七日及び同五七年二月二四日頸肩腕症候群、変形性脊椎症、四肢不全麻痺の

(5) 〈証拠〉によれば同五八年五月二五日国立横浜病院において頸椎捻挫、変形性脊椎症の

各診断を受けていることが認められる。

以上の認定に反する証拠はない。

2  然るところ、原告は右1の(二)の災害(その主張の変更については前記のとおり。)は、原告が同1の(一)の公務に従事中の昭和四六年三月二四日午後三時頃、研いだ米を六升炊き炊飯器の上段の釜に移し入れようとして米の入つた籠を持ち上げたときに足を滑らせ籠を落としそうになつたので突嗟に首を左に曲げて頭と首でこれを受け止めたことにより発生したと主張し、これに副うものとして、(1)原告本人尋問の結果、(2)証人野口綾子の証言、原本の存在及びその成立に争いのない乙第八号証(野口綾子作成の確認書)、成立に争いのない乙第二九号証(地方公務員災害補償基金神奈川県支部審査会書記作成の野口綾子に対する調査書)、(3)原本の存在及びその成立に争いのない甲第六号証の一、二(但し、二については訂正部分を除く。)、成立に争いのない乙第二一号証の一、二(以上いずれも内藤英夫作成の証明書及び確認書)、同乙第二六号証(前同書記作成の内藤英夫に対する調査書)、(4)証人和田健偉、同澤村チヨ、同横山ノリエの各証言が存在する。

然しながら右各証拠はいずれも以下に述べるとおり措信することのできないものである。すなわち

(1)  原告本人尋問の結果について

(イ) 炊飯量及び炊飯器の使用に関する供述部分

原告は、卒業式に何人来るかわからないので余つてもよいから多く炊くようにと指示され、折詰弁当二八〇人分の米四二升を炊くことにしていた、三月二四日の午前中に四升釜を三つ炊き、午後三時頃四升釜を三つと六升釜を三つ炊く用意をした。炊飯釜は原則として六升釜を使うように指示されており、当日午前中に四升釜を使ったのは、溝上と沢村から特にそのように指示されたからであると供述する。

しかしながら、前掲乙第五二、第五四号証によれば、三月二五日の卒業式に出席する予定の生徒は八五名(卒業生八三名、修了生二名)であり、これに職員及び来賓等式参列者を含め余分にみて一五〇人分の折詰めが予定されたにすぎなかつたことが認められるのであり、仮に二四日に右の折詰弁当のほかに職員二〇名ないし二五名の二四日の昼食(証人沢村フミ子の証言によると、職員に対する給食は、昼食並びに夜間当直にあたる職員一名の夕食及び朝食であることが認められるから、職員二〇名ないし二五名に対する夕食分を炊飯したとみれないし((そうみるべき特段の事情はない。))炊飯時刻が午後三時であるとの原告の主張に従えば、昼食分を炊飯することはあり得ないから、炊飯時刻を午後とみる限りこの分は考慮の外に置いてよいように思われるが、炊飯時刻を度外視して二四日の考え得る炊飯量として計算に入れたにすぎない。)と、夜間当直職員一名の二五日の朝食分に、炊事作業員六名の二四日夜と二五日朝の分をも合わせ炊いたとしても(前掲乙第五二号証及び証人沢村フミ子の証言によれば、消防学校は三月一九日で授業を終えて生徒は学校にいなかつたので同月二〇日以後は生徒の分は給食調理をする必要がなかつたことが認められる。)、折詰分は一人分(一個分)一合弱、給食分は一人につき一食一合二勺とすれば(証人野口綾子及び沢村フミ子の供述による。)、二四日に炊くべき米の量はせいぜい一九升ないし二〇升でよいこととなる。そして前掲証人沢村フミ子の証言によると、炊飯のため六升釜を使用すると、一回に炊く米の量が多く研いだ米を金籠に入れて運ぶのにもさらにこれを炊飯釜に移し入れるにも重くて不便であつたので、炊事作業員らは原則として第一番目には四升炊きの炊飯器を使用し、六升炊き炊飯器を使用する場合も高さにおいて使用し易い中段釜から使用し、次いで、下段、上段という順に従つていたことが認められる(原告自身も二四日の朝は四升釜のみを使つたと供述するところよりしてこの事実は肯定されて然るべきである。もつとも原告はそのとき特にそのように指示されたから四升釜を使つたのであるというが、そのときに限つて四升釜を使用する合理的理由は見出し難い。)。したがつて、たとえ炊飯釜に一杯になるまで米を入れることはない(原告本人及び証人沢村フミ子の供述。)にしても、当日の炊飯担当者たる原告としては、たとえ二〇升の米を一度に炊く場合でも四升釜を三つと六升釜のうち中段と下段とを使用すれば十分であつて、六升炊きの炊飯器の上段の釜まで使用することはなかつたといわなければならない(ましてや原告の供述するように午前中に三つの四升釜で炊飯したとすれば午後には六升釜を使用する必要はなかつたといえるのである。)。

(ロ) 本件災害の発生状況に関する供述部分

原告は米を炊飯釜の上段に入れようとした際足を滑らせて米入りの籠を落としそうになり、これを肩と首で受け止めたと供述する。

しかしながら、〈証拠〉によれば、原告は公務災害認定請求(補償の請求)、審査請求及び再審査請求において本件災害の発生状況を述べているが、一度も原告が足を滑らせたとは主張しておらず、特に審査請求の段階で被告が提出した弁明書(乙第九号証)に対し原告が反論書(乙第一〇号証)を提出しているのであるが、弁明書の他の箇所に対しては逐一反論がされているにもかかわらず、弁明書に記載されている「災害発生時における作業状態は通常の動作によるものであつて、足を滑らせる、転倒する等のアクシデントはなかつた。」との部分に対しては何らの反論も加えられていないことからすると、本件災害当時から八年以上経過した本訴において足を滑らせたと主張し、これにそう供述をすることはそれ自体極めて不自然なことと言わざるを得ない。それのみならず、成立に争いのない乙第三六号証によると、原告の身長は一五〇センチメートルであると認められるところ、六升炊きの炊飯器の上段の釜の高さは前述のとおり床上一二〇センチメートルであるから、原告が右炊飯器の上段の釜に米を入れようとする場合であつても米入りの金籠はせいぜい原告の肩程度に持ち上げれば足るから、仮にその段階で足を滑らせたとしても、原告の供述によれば、原告はそれがため床上に転倒し或は所携の籠を落とすなどの事態は生じていないというのであるから、さ程の強さの滑りではなかつたと推認できることを考え合わせると、金籠が首に当たつたとしてもその強さは原告の主張するような頸椎捻挫の傷害を発生せしめる程度のものであつたとは到底認め難いところであつて、この点の供述にもその合理性に疑いを差しはさむ余地があるのである。

(ハ) 災害発生後の状況についての供述部分

原告は本件災害により頸椎と腰に激痛を覚え、その場にかがみ込んでしばらくの間うつ伏せになつて調理場の人たちに聞こえるような声で痛い痛いと苦しんでいたところ、溝上と沢村が引地に原告の仕事を代わつてやつてほしいと頼んだので引地が代わつてくれたと供述する。

しかしながら、前掲証人野口綾子、同沢村フミ子の証言によると、原告の主張する午後三時頃は炊事作業員全員が調理場で働いていたが、本件災害を見た者も原告の「痛い。」と呼ぶ声を聞いた者もおらず、また、原告がその場にうずくまつているのを目撃した者もいないことが認められる(なお、乙第二九号証の記載については後に触れる。)。

もつとも、この点につき原告は原告と他の炊事作業員との人間関係が悪かつたため他の炊事作業員らが故意に原告に不利な供述や証言をしているというのであるが、前掲乙第二六号証、第二七号証、前掲証人内藤英夫、同沢村フミ子の各証言によれば、消防学校の調理室の雰囲気は、特に和気藹々としていたとまでは言えないまでも、人間関係が悪かつたわけではないことが認められ、かえつて、前記野口の証言によると、原告と野口は原告が消防学校に就職する以前からの知り合いでいわゆる「親戚付き合い」という程の懇意の仲であつたことが認められるから、野口を含め原告以外の炊事作業員らが故意に原告に有利な事情を秘匿しているとみることはできない。

原告の右供述にも信を措き難いのである。

(2)  野口綾子の証言及び前掲乙第八号証、第二九号証について

(イ) 乙第八号証は、野口が本件災害の発生を確認したとしてその事実を証明する形式の文書になつているのであるが、同人の証言によると、同人は本件災害を目撃したりこれに気づいたりしたことはなかつたが、原告が本件につき公務上災害の認定申請をなすにあたり同人から依頼され同人の書いて来た文書にいわれるまま署名捺印したにすぎないものであることが認められる。

(ロ) また、乙第二九号証には、野口綾子が調査にあたつた地方公務員災害補償基金神奈川県支部審査会書記に対し「原告は炊飯中『痛い』と叫んでその場にしやがみ込んだ。」とか「更衣室で休んでいる原告に『どうしたのか』と尋ねたら『体中が痛い』といつて本件災害の話をした。」と述べた旨の記載があり、また、野口の証言中には「更衣室で腰をまげてうづくまつている原告に尋ねたら、原告は『お釜を持とうとしてすべつて落しそうになつたので胸で支えた』と答えた。」との部分があるが、野口の供述は全体的に曖昧であるうえ、前認定のように野口は原告と極めて親しく、原告が被告に対し公務上災害の認定申請をする際原告から依頼されるまま本件災害を現認したかの如き証明書を作成していることの事情をも合わせ勘案すると、野口の供述並びにその供述の記載はたやすく措信できない。

(3)  甲第六号証の一、二、乙第二一号証の一、二、及び乙第二六号証の記載について

甲第六号証の一、二及び乙第二一号証の一、二は、いずれも昭和四六年三月当時消防学校の管理課長であつた内藤英夫が原告主張の本件災害を確認しこれを証明する趣旨の文書であり、乙第二六号証は、内藤が前記審査会書記の調べに対し本件災害状況に関して原告の供述と同僚の供述が一致している旨述べたことの記載のある文書である。然るところ、内藤英夫が右の文書を作成し或いは供述した事情については、証人内藤英夫の証言によると、内藤は消防学校に管理課長として勤務していた当時、原告から家で腰を痛めたという趣旨の話は聞き及んでいたが本件災害については何も聞いていなかつたところ、昭和四九年一一月下旬頃当時の内藤の勤務先である神奈川県立平塚江南高校に原告とその夫が訪れて来て既に内容の記載のある文書(乙第二一号証の一)を示し「共済組合の年金の請求のために使うので印を押して欲しい。印を押してくれれば年金がもらえるようになるから。」と依頼されたので内藤は海老のように腰の曲がつた原告の姿に同情し、それによつて年金がもらえて幸わせになるならと思う余り、記載内容が真実か否かについて何ら確認することなく右文書の末尾に署名捺印し、さらにその数日後原告の夫が再び訪ねてきて「前の書類はまずいからこちらに印を押し直して欲しい。」と乙第二一号証の二を示すのでこれについても内藤は記載内容が真実か否かについて確認せず署名捺印したものであることが認められる(なお、原告は乙第二一号証の二の本件災害の態様に関する記載は内藤の指示により一たん家に持ち帰つて詳細に記載した上で内藤の署名捺印を得たものであると供述するが、もし内藤が指示したのであればその場で記載すれば足りるのであつてわざわざ一たん家に持ち帰る必要はないはずであるから、この点において原告の右供述は措信できない。)。

また、甲第六号証の一、二の作成経緯についてはこれを明らかにする証拠はないが、甲第六号証の二と乙第二一号証の二を対照してみると、後者には末尾署名の肩書きに「事故報告」の文言がある点を除き両者はその字体、内容において全く同一(原本とコピーのように)であり、右の文言は前掲証人内藤の証言によると、内藤が乙第二一号証の二に署名後数か月して消防学校に呼ばれ右書面を見せられた際同人において前記文言を書き加えたものであることが認められるところからすると甲第六号証の二は乙第二一号証の二を右文言を書き加える前にコピーしたものであると推認されること、また、甲第六号証の一と乙第二一号証の一とは、二個所の作成日付を除いて両者は字体、内容において全く同一(前同様)であり、ただ、右の作成日付が、前者は「昭和四十九年十月二十八日」後者は「昭和四十九年十一月二十八日」となつていて「十月」か「十一月」かのみの違いであることからすると、原本は乙第二一号証の一であるが、同号証の日付がもともと「昭和四十九年十月二十八日」とあつたのをそのままコピーして甲第六号証の一とし、その後において乙第二一号証の一の作成日付の「十月」とある「十」の下に「一」を加入して「十一月」としたものと推定できるので、甲第六号証の一、二の存在は乙第二一号証の一、二とは別個に考察する要のないものというべきである。

さらに乙第二六号証の前掲の記載についても、前掲証人内藤の証言によると、内藤は審査会書記から事情聴取された際、右乙号各証の記載内容は事実に反しているが原告に対する同情心から署名捺印したにすぎない、と述べる勇気がなかつたため曖昧に答えた結果であることが認められる。

(4)  証人和田健偉、同澤村チヨ、同横山ノリエの各証言について

(イ) 証人和田健偉は、昭和四六年四月七日原告を診察した際同人から本件災害の事実を聞いたと供述する。然しながら方式及び趣旨により真正な公文書と推認し得べき乙第三一号証によると、和田は昭和五一年一一月二九日事情聴取に当たつた審査会書記に対し「本人は仕事中にどうこうしたようなことは少しも言わなかつたので原因についてはわからない。仕事中にけがをしたということであれば労災であるからそのような取扱いをしたはずである。」と述べていることが認められ、現実にも原告に対する診療においては労災扱いにせず健康保険扱いとしている(前掲第三四号証の五によつて認められる。)ことと対比すれば、和田の前記証言は到底措信できない。

(ロ) 証人澤村チヨは原告が大船共済病院に入院中、同横山ノリエは原告が国立横浜病院に入院中いずれも原告から本件災害について聞いたことがあると供述する。然しながら証人澤村については、同人は原告が昭和四六年四月二七日から同年七月二四日まで大船共済病院に入院中(この事実は成立に争いのない乙第四〇号証の一によつて認められる。)に原告と同室に入院していた娘に付き添つていた関係で知り合い、聞いたものであるというのであり、また証人横山は、原告が同四七年六月一四日から同年八月二六日まで国立横浜病院に入院中(この事実は成立に争いのない乙第四七号証の一によつて認められる。)同時期に同病院に入院していた関係で知り合い、聞いたというものであつて(いずれも各証人の供述による。)証言時までに一〇年以上経過しているのである。このように一〇年以上以前の入院中にもしくは入院患者に付き添中に他の入院患者から聞いた話の内容を記憶しているとすれば、その話の内容が余程強い印象に残るものであつたなど何か特段の事情が存在していなければならなかつたはずであり、そのような事情のない場合は平均的能力者にあつてはとても記憶にとどめることは困難なものである(入院中もしくは入院患者に付添中は他の多くの入院患者等と接触し会話が交されるはずであるからこれらの内容をすべて記憶できるものとは到底考えられない。)。本件災害は聞き手にとつて特段の関心を抱かせる事柄でもなく、両証人とも他に特段の事情があつたとは認められない(もつとも横山の供述によると同人は脊髄を傷めていた関係で原告の疾病には関心があつたというのであるが、これとても記憶にとどめる特段の事情とは認め難い。)ことからすれば、同人らの前記供述はにわかに措信し難いものといわなければならない。特に後述するように、原告は前記二個所の病院に入院中担当医師及び看護婦に対し本件災害については何も話さずかえつて看護日誌の作成にあたる看護婦に対し自宅で発生した災害である旨述べている事実に照らせば、原告が右証人らに対し当時の発症の原因が本件災害にある旨話したとは考えられないところである。

したがつて、右証人らの証言はいずれも措信できない。

以上のとおり、原告の主張に副う証拠はいずれも措信できず、他に本件災害を認定できる証拠はない。

3  かえつて〈証拠〉及び弁論の全趣旨を綜合すると、

(一)  原告が主張する本件災害発生日たる三月二四日の午後三時頃は、炊事作業員全員が調理場で作業をしていたが、本件災害の発生を目撃した者はなく、調理場においてうずくまり、痛い痛いと苦しんでいる原告の姿を見た者もいない。

(二)  原告は同日、他の炊事作業員らと同様に午後九時頃まで勤務し、翌二五日も午前七時頃に出勤して他の炊事作業員とともに折詰弁当を作つた。二五日は午前一〇時からの卒業式に引き続き午前一一時からは消防大学校長山田滋の卒業記念講演が行われ、その聴講者らに折詰弁当が配られてすべての行事が終了した後、午後二時から図書室で職員の慰労会が催されたが、原告はこれにも出席して飲食をした。

さらに原告は同月二六日以降も平常どおり出勤し、後記腰痛のため入院する直前の同年四月二四日まで勤務を続けた。この間原告は上司や同僚に対し本件災害の発生やそれに伴うべき痛み等について話をしたことはなかつた。

(三)  原告は、本件災害が発生したと主張する昭和四六年三月二四日より以前である同四五年一〇月二七日和田医院において腰痛症(ロイマチス性)の診断を受けて同年一二月まで通院し、また、同四六年一月一八日には肩背部神経痛の診断を受けて治療のため一〇日間通院した。

(四)  原告は同年三月二四日から同月二八日までの間は医師にかからず、同月二九日和田医院へ行つて診察を受けたが扁桃腺炎であつた。更に原告は同年四月七日腰痛のため同医院で診察を乞いレントゲン撮影をしたところ、腰部の変形が少しある程度でその変形もたいしたことはなかつたことから変形性腰痛症との診断を受けた。原告はその際和田医師に対して腰痛を訴えただけで頸部、肩部等の痛みは訴えておらず、それらの部位のレントゲン撮影もされなかつた。また、原告は三月二九日に診察を受けた際も四月七日以降に診察を受けた際も本件災害に関しては和田医師に何も告げず、同医院では終始健康保険扱いによつて診療がされた。

(五)  原告は同年四月二六日大船共済病院において診察を受けたが、主訴は腰痛であり(他の部位の痛みは訴えていない。)、診断は腰椎椎間板障害であつた。そして原告は同月二七日から同年七月二三日まで同病院に入院し、同月二四日に退院した後同四七年三月までの間は同病院に通院して治療を受けた。原告は同病院においても健康保険扱いにより診療を受けており、同病院の医師に対して本件災害の発生を告げた形跡はないのみならず、入院した当初、看護日誌の作成にあたつた同病院の看護婦に対し「昭和四六年三月二四日頃棚の上に重い物を乗せようとした時ギクッとなり腰痛を覚えた。」旨を述べた。

(六)  原告は大船共済病院に通院していた同四六年九月二〇日同病院において軽労働就業には支障ないとの診断を受け、同年一〇月三〇日なされた復職の発令により同年一一月一日から消防学校における勤務についた。しかし従前どおりの労働は無理であつたため、労働時間は一日七時間程度にして主として食器の運搬の仕事に従事した。

(七)  原告は腰椎椎間板障害、左股関節痛、頸椎骨軟骨症により同四七年三月二九日から同年六月三日までの間再び大船共済病院に入院した。そして同月五日国立横浜病院で診察を受けたところ、レントゲン検査では頸椎には変化が見られず、腰椎には老人性のものと同様の変形が見られたため、頸肩腕症候群、変形性脊椎症と診断され、同月一四日から同年八月二六日まで同病院に入院し、その後も同病院に通院して治療を受けているが、同五〇年八月には四肢不全麻痺の病名が加わり、同五八年五月には頸椎捻挫(四肢不全麻痺、頸肩腕症候群)と診断された。原告は同病院においても医師に対し本件災害の発生を告げず、健康保険扱いによる診療がされており、また、同病院に入院した当日である同四七年六月一四日看護日誌の作成にあたる同病院の看護婦に対し「昭和四六年三月二四日家で重い物を持ち上げた時全身に通電した感じを受け、一時間後に腰部と左臀部に疼痛を覚えた。」旨述べた。

以上の事実を認めることができる。

右事実によれば、原告主張の日にその主張のような災害は発生しなかつたものと認めざるを得ない。

三次に、原告は、昭和四六年一一月以降同四七年三月までの間消防学校において労働に従事したことが頸椎捻挫を原因とする症状を増悪させたとして本件処分の違法を主張するので、この点について判断する。

〈証拠〉によると、原告が昭和五八年四月四日大船共済病院で受けた筋電図検査の結果では、脊髄前角部に損傷のあることが推定されること、頸部の捻挫が脊髄前角部に損傷を与えることがあること、頸部捻挫により頸部の軟部組織に損傷を受け、交感神経及び副交感神経が障害された場合には、上肢に重量物を持つと、上腕神経叢及び血管の圧迫も加わり、手のチアノーゼ、シビレ、痛み、麻痺等の症状の増悪を招くことのあることが認められる。そして〈証拠〉によると、脊髄前角部の障害を起こす原因としては、頸椎捻挫等の外傷のほか遺伝性のもの、先天異常によるもの、感染によるもの、新生物によるもの、変性疾患、中毒性のもの、血管障害によるものなどがあるため、前記大船共済病院でした筋電図検査のみでは原告の脊髄前角部障害の原因は解明されないことが認められるから、右筋電図検査によつて存在が推定された脊髄前角部の損傷が頸椎捻挫によつて生起したものかどうかは判定できないところである。しかしながら、原告の右脊髄前角部損傷の原因はさて措き、少なくとも前記筋電図検査時(昭和五八年四月四日)での症状が脊髄前角部損傷に起因するものであり、そしてこれが原告の復職期間中(〈証拠〉によれば昭和四六年一一月一日から同四七年三月二四日までであることが認められる。)の労働によつて増悪された結果であるというためには、右期間より以前に原告に脊髄前角部の損傷が生じていなくてはならないことは理の当然であるところ、原告主張の日にその主張の災害が発生していないことは前認定のとおりであり、他に原告の脊髄前角部損傷が右復職期間以前に生じていたことを認定するに足る証拠は存しない。もつとも前記認定のとおり、原告は昭和四五年頃より腰痛を訴え右復職期間中までに医師より腰椎椎間板障害、股関節痛、頸椎骨軟骨症の診断を受けている(ただし頸椎軟骨症の診断は厳密には復職期間の一日後である。)が、これらの傷病ないしは症状が脊髄前角部損傷に関連あるものとは認め難い。

よつて、原告の復職期間中の労働により頸椎捻挫を原因として生じた症状を増悪されたとする主張は理由がない。

四以上説示のとおり、原告主張の災害は認められず、公務に従事中の症状増悪も認められないから本件災害を公務外災害と認定した被告の処分は適法であつて何らの違法もないものというべきである。

よつて、原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(安國種彦 山野井勇作 佐賀義史)

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